いつか晴れてほしい空2

ママが社会、教育、生き方について思うあれこれ。

子どもが奈良で仏像に目覚める。

 

最近子どもが”日本の歴史”に大ハマり。

まぁ私たち誰もが通る道なんだが。

好きな時代は飛鳥時代だと。

安土桃山時代とか鎌倉時代とかじゃないんだ?

(私は平安時代かな。風雅な世界に憧れる♪)

しょっちゅう

蘇我入鹿とか今話題の聖徳太子とか蘇我馬子とか言ってる。

 

とゆうわけで、奈良に社会科見学に行ってきた。今回は歴史編。

 

私は奈良は以前から行きたかった。

三十過ぎたら仏像とか静かに観てみたいなと感じるようになって。(あっでも仏像マニアではないので全く詳しくない)

仏像って寺などあるべき場所にある方がずっと生き生きしている。博物館などで集められて展示してあるのは確かに見やすいんだけど、その像の背景から切り離されていて生気を感じない。だから、実際に見てみたいのだ。

 

でも、日数が必要なので気軽に行けないのと、

寺や仏像に興味をもてない子どもとは行けないのとで諦めていた。

 

ところが、ここへきて子どもが飛鳥時代が大好き☆チャーンス!早速奈良へ!

 

飛鳥寺石舞台古墳はどうしても行きたいと言うので飛鳥駅からサイクリングでまわった。こどもはいつの間にか憶えてたようで各ポイントにくるとここは誰の墓だとか解説してくれる。(ガイドか⁉︎好きなことはホントにすぐやるしおぼえるよね〜)そして、実物をみていたく感動している。「飛鳥に来てよかった‼︎」と。

飛鳥寺の仏様は1400年前からいるだけあって静かながら貫禄があった。今は赤茶色だけど、当時は全身金ピカ目だけ青かったというから、それはすごい神々しいだろうなと感じた。

 

飛鳥時代仏教伝来ということもあって、こどもも仏像にも興味があるみたい。よかった!古墳とか遺跡だけじゃないのね。

 

仏像のガチャポン三回もやらされた。

結構リアルで古びた雰囲気もでているから重厚感あり。私もつい眺めちゃう感じ。 

 

こどもは部屋に戻るといろんな仏像の絵を描いている。

仏像は『かっこいい!』そうだ。

 

これからは一緒にお寺&仏像巡りできそうだね〜☆

 

ハードカバーじゃないから軽いし、サイズも小さいのでちょっとしたお出かけや旅のお供に便利な角川の歴史マンガ↓

 

 

 

 

 

 

特攻隊を美化して正当化するのは哀悼することとは違う。

戦争の事実を忘れないためにも、

子どもを連れて

原爆ドームをはじめ、昭和館や平和記念館に行く。イベントの写真パネルを見に行ったりもする。

知覧にも行こうか検討したことがある。

でも、知覧で特攻隊をどのように伝えようとしているのかわからず、子どもに真に大切なことがうまく伝わるか不安が残り、断念した。

 

近年のドラマや映画、本では特攻隊が美化されているものも多い。

 

特攻隊での死を美化したり、意味のあるものと思いたいという気持ちは人間の感情からして理解できるが、

フランスで自爆テロのことをKAMIKAZEというように現実として客観的に見て、特攻隊の行為は自爆テロと重なる部分があると思う。

 

もちろん特攻隊は軍人を対象としているが、

テロは民間人を対象にしている点で大きく違う。

テロは全く肯定できない犯罪だが、イスラム教徒で自爆テロを行っている者も自らの死を美しく意味があると信じている点は特攻隊と変わりない。

また、

力ある者が神に自分の命を差し出すことはしないのに、

力ない者に神に命を差し出すよう強制、洗脳している点も同じ。

 

特攻で戦死された方への哀悼の気持ちはあるし、

特攻隊を志願した人々を非難する気持ちも全くない。

あのような教育勅語の強制下では若く純粋であればあるほど洗脳されやすいのは無理もなく、むしろ戦前の体制の犠牲者といえるから。

 

しかし、特攻を美化して正当化することは同じ過ちを犯しかねないという点で非常にキケンだ。

 哀悼と美化・正当化は分けて考えないと

 

過ちを繰り返さないために特攻隊の存在は子どもに伝えていくべきだけれど、伝え方は慎重さが必要だ。

感動ばかりを強調した結果、「特攻隊はカッコイイ!」なんていう認識を与えてしまったり、「特攻のような命を軽んじる作戦は絶対にダメだよね」という視点が抜け落ちてしまったりする可能性がある。

 

『自分の命であれ、他人の命であれ、何よりも大事』ーこれをしっかりと伝えていかなければならない。

 

 

 

 

こどもに非寛容な社会-少子高齢化から考える。

外国人から見た日本人についての記録では、少なくとも江戸時代から戦前までは日本では子供が非常に大事にされていたようだ。内でも外でも。神聖な存在として。町中に子供の笑い声があふれていたと。当時の外国人はその様子に楽園をみたと感激している。(外国人から見た日本史より)

 

外国人がみた日本史 (ベスト新書)

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現代の日本ではどうだろう?
高齢化した大人が子供の声が大きくてうるさいからと保育園や公園の建設を堂々と拒否する、

そしてそれが何の疑問もなくまかり通る社会。

本当に声が大きいのは誰でしょう?(答えは文中にあり)
明らかに子供に非寛容な社会となっている。

 

 社会で子供を「大事にする」というあの美しき日本の文化はなぜ失われ、

真逆の「大事にしない」という方向に進み続けているのか?

 

*戦後の民主化で社会に平等や競争がもたらされたから?
*家長制度が崩れ、核家族化したから?
少子高齢化のせい?

 

どれも関係しているかもしれないが、以前に比べて非寛容が進んでいることを考えると、少子高齢化の進行が最も影響を与えているのではないかと思う。


少子高齢化により、民主主義の弱点が強調されてしまう。

 

少数派有権者でもないこどもの声はあまりに小さくて政治には届かない

一方、多数派有権者である大人の声はとても大きくて政治にしっかりと届く。

 

つまりこどもたちは未来を担う存在でありながら、選挙権をもたないだけでなく、少数派だ。

高齢者を主とした有権者は多数派で未来に責任をもたずとも、未来を決定する力をもつ。

選ばれる議員も高齢化し、責任は持たないが、力は振りかざす者(わかりやすい例では石原さんのような方)ばかり。類は友を呼ぶ?


本来、責任と力は一致するもの。だから信頼が生まれる。


高齢化した大人による、子供を含めた若者たちへの想像力が欠けてしまっている今、高齢化した議員ばかりに任せておけない。1つの案として若者議員枠または子育て世代枠を設け、確実に若者や子育て世代の声を届けるというものはどうだろうか?若者の投票率もupするかも!?(自然に任せておくと選挙費用が高く、若者には立候補が難しく、候補者となっても高齢化した有権者はやっぱり高齢化した議員を選ぶという結果になる。)
ただ、これを決めるのは高齢化した議員たちだから自分で自分の飯のタネを失うような決定はしないだろうな。。どうしたものか。

 

子供に対する非寛容は少子高齢化をさらに進行させる一因となってもいる。

 

少子高齢化は高齢者を支える若者たちが少ないという物理的な側面がよく強調されるが、
国力である若者の声が大事にされず、届かないということがもっと問題だ。


単に労働力としての若者が減るだけでなく、この国の未来を真剣に考える存在としての若者が減るということが国としての弱体化を招く。

 

少子高齢化という危機はリーマンショックのように肌で感じられるものではないが、

じわじわと確実に国力を低下させている。

 

この流れを変える希望となるのは数が確保された若者議員だ。

それとも移民に希望を託すか?同じく少子高齢化したドイツのように。

 

この本を読んで考えたことを記事にしました。↓

 

 

 

「オモテナシ」という言葉がどうも胡散臭くて好きになれない。

「オモテナシ」という言葉は嫌い。
理由は二つ。


一つは「オモテナシ」という言葉で労働力を搾取しているから。
もう一つは相手のためといいながら、最終的には自分の利益が目的だから。

 

経営者が自分の責任で今後の自分の利益のために自身が「オモテナシ」をするのは問題ない。

 

経営者が従業員に対して、給料を上げることもせずに「オモテナシ」を強制するのは、「オモテナシ」という名の労働力の搾取だ。

 

おもてなしはやるかやらないかは完全に自由裁量で、やらなかったからとどんなデメリットも受けるべきではない。

言葉による思考停止


言葉の力はおそろしい。


ある物事について言葉で表現された時、人々は表現されたことに安堵し、理解し得たと錯覚し、その物事についての思考を停止してしまう。
その言葉が核心を得ていない、本質を表していないとしても。


例えば、「戦争は悪い」という言葉。
この言葉に思考は停止し、もちろん議論されることもなく、戦争について深く掘り下げられることがない。

だから、心にも残らなくなっている。


この「戦争は悪い」という言葉は思考停止という魔力はもつが、残念ながら戦争そのものの抑止力を持っているとは思えない。

思考停止させてしまうとしても、その言葉が対象となる物事の目的を達成するならまだしも。


この記事はこの本↓を読んで感じたことです。読みやすいし、おもしろかった。

丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ(2) (朝日新書)

丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ(2) (朝日新書)


文明の進歩は幸せにつながるのか?

奥多摩の森林は江戸時代、幕府によって大切に保護されていた。

それが明治時代になって木々が次々と伐採され、

山々はすっかりはげ山になってしまった。

 

これまで、文明の進歩が最もすばらしいことのように語られてきた。

一方未開であることは蔑まれてきた。

 

本当に文明の進歩は人々を幸せにするのか?

文明が進んでいてもその代償として

守るべき、自然、命、絆、愛・・が

守られず、

これらに人々も守ってもらうこともない世界。

 

未開だとしても守るべきものを理解し、守って、

これらに人々も守られている世界。

 

どちらが幸せなんだろう?

 

このままただひたすらに

文明の進歩を礼賛していくことで

より幸せな世界が待っているのだろうか?

 

 

 

こどもと寝ると恐ろしいことが。。

こどもと寝るのはいいんだけど、

一つ恐ろしいことがある。

 

我が家で通称”ねじねじ”と呼ばれる現象だ。

 

寝ている間に子どもが私たちの体の下に足をねじねじとねじり込んでくる。

 

3歳くらいから始まって、その癖は未だに健在。

小学校入ったら直るかと思っていたのに。

足が寒いせいかと思って靴下を履かせたりしたけど、全然効果なし。それに、夏だってやるし。

 

こどもの足の指の骨と私の骨が当たったりするとぐりぐりしてほんと痛い。

お腹の下だって気持ち悪くなる。

骨が当たらなくても足が体の下に入り込むことでだんだん体が半分だけ持ち上がってきて、寝れない。

寝ぞうが悪過ぎて、こどもの足が私の頭近くにきているときは、枕の下に足をぐにぐに入れてくる。これまた枕がどんどん浮き上がってきて首イタっ!

 

これまでの経験上1番いい体勢は子供に背を向けて寝ること。

 

でも、恐ろし過ぎて痛過ぎてとにかく熟睡できないことは確実。(*_*)

 

みなさんのおうちでは『ねじねじ現象』はありませんか?

うちだけなのだろうか?

 

起きているときはこんな感じ↓なんだけどねぇ

 

itusora.hatenablog.com

 

『不完全』はおもしろい。

『完全』は素晴らしいし、完結した美しさがある。

だけど、それ以上でもそれ以下でもない。

『完全』には未来はない。

どんな想像も入り込む余地はない。

だから、退屈だし、拒絶するような冷たさがある。

 

『不完全』には未来がある。

いかようにもなる未来が。

どんな想像も入り込む余地がある。

 

子どもは不完全な存在。

だから、おもしろいし、愛おしい。

息子の絵が思いがけず評価される。

息子が絵の賞をいただいた。

けっこういいやつ。

本人的にも私的にもそんなに大本命の絵ってわけではなかったので、

本当?何かの間違いじゃ?

と信じられない。

なぜ、賞をいただけたのかはわからない。

どこらへんが評価されたのか?

 

夫は確かに数ある息子の絵の中でこれが1番いいといってだけど。

 

ブログの記事もそんな傾向がある。

気合い入れて時間かけて本命!って思ってる記事よりも、

つらつらつらってなんとなく書いた記事の方が、

アクセスがあったり。

わからない。

もちろんアクセス自体はうれしいし、感謝なんだけど。

 

いわゆる勉強とは違うところかな。

勉強はやったらやった分だけ反応がある。

 

あーそれにしてもそもそも、

最近このブログちゃんと表示されてるのかわからない。

地震のたびに原発が心配になる。

昨日も大きな地震があった。

地震があるたびに

原発は大丈夫だったかしら?

ってハラハラ心配する。

 

『~原発は運転停止中のため~』とニュースでいうのを聞いて

ああ、それなら大丈夫そうとほっとする。

 

停止中ならある程度安全の担保にはなる。

もちろんないにこしたことはないけど。

 

だけど稼働中なら?

 

いくら安全確認して大丈夫といわれても安心できない。

真の情報が私たちに与えられているとは限らないから。

福島の時のように。

 

本当に爆発大事故になる可能性だって十分にある。

福島の時以上の事故に。

 

東日本震災以降大きな地震は頻繁に起こっている。

事故のリスクにもかかわらず、原発再稼働するのはなぜ?

 

原発の再稼働は日本全体で自爆するようなものなのに。

 

こどもに残したくない負の遺産だ。

 

原発関連☆

 

itusora.hatenablog.com

 

なぜ、失敗を繰り返すのか?

何か失敗をしたとき、誰かのせいにして自分は被害者だと思っていると、

物事は一向に改善しないし、また同じ失敗を繰り返す。

 

なぜか?

 

その物事に対して、自分がコントロールすることを放棄してしまうから。

 

先の戦争について全体主義の下、

一般の人々が単に一部の悪いリーダーのせいで被害を受けたという視点でしか見ないと、

今後も同じ失敗を繰り返すことになる。

 

 

戦争は一部の悪いリーダーの力だけで生じたり、維持されたりするわけではない。

そのリーダーを大勢の一般の人々が支持してはじめて戦争が生じたり、維持されたりする。

 

-メディアなどを通して人々は戦争における人殺しに熱狂した。まるでスポーツ観戦のように。-

 

だから悪いリーダーが生まれないように監視することももちろん重要だが、

一般の人々が戦争に対して責任を負っていてコントロールする力を持っていることを自覚する必要がある。

 

 

自分の運命が誰かに握られていて、身をまかせるしかないなんて恐ろしい。

自分の運命は自分でできるだけコントロールしたいし、できると思ってる。

(たまに、心が弱くなると誰かのせいにしたくなるんだけど。楽だから。(^^;))

 

戦争も自分の運命に関わること。

だから自分事として考えよう。

 

☆関連記事☆

 

itusora.hatenablog.com

 

子連れ海外旅行方法と注意点、もう一度行きたい国

夏休みに海外旅行に行くならボチボチ計画たてはじめないと。

私はいつも気付くのが遅くて、ゴールデンウィーク明けに気付いて、行くのは8月後半とか遅いと10月くらいになってしまいます。

 

これまでいくつか国を旅したけれど、
もう一度行きたい感じがするのは、

(全て子連れだった)


トルコ、パラオ、モンゴルかな。


トルコはやっぱりイスタンブールの美しさ。夜のモスクに異国情緒あふれるあかりが灯る。帰国する飛行機から見おろした夜景が胸に焼きついている。

(今はテロが心配だからオススメはできないけど。)

 

 

Sultan Ahmed Mosque Istanbul Turkey fridge magnet 75x50mm スルタンアフメト・モスク-イスタンブール-トルコ-冷蔵庫のマグネット


パラオは観光地化されていない自然の素朴な美しさ。

海も陸も本格的な美しさがあるのに静か。まるで隠れ家のよう。

(だからあんまり人に勧めたくない…)

ジグソーパズル セブンティアイランド(パラオ) / 絵画 壁掛け のあゆわら


モンゴルはなにもないことの美しさ。

どこまでも続く草原と満点の星、必要なものだけがある。

時間の概念からの真の解放に癒された。

何にもしばられないことの贅沢といったらない。

 

大草原モンゴル (Suiko books)

番外編:イタリア フィレンツェ

映画「冷静と情熱」でフィレンツェの街の美しさにひかれ、一度は行きたいと思っていました。青白い夜明けの街を眺めながらホテルでとる朝食は最高でした。一度とは言わず、何度も行きたいです。

イタリア、フィレンツェ、夕方日没都市 キャンバスの 写真 ポスター 印刷 (90cmx60cm)

 

子どもと海外旅行を計画している方は参考になるかもしれません。

子どもと海外旅行の方法、持ち物、注意点

    ↓

http://ameblo.jp/fukuro383/

今のところ更新できるかわからないですが。。

 

ピンチは秘めた力がでるチャンス

窮地に陥ったとき
気がついたら行動していた。


以前から窮地を予測してこうしようとかああしようとか考えていたわけではない。


辛いとか疲れたとか感じる暇もなく、無我夢中で。

 

まぁ火事場の馬鹿力とでもいいましょうか。

 

中途半端なぬるま湯に浸かっているとき
そんな行動力はない。。


堂々巡りに考えるばかり。

 

窮地に陥らないと力がでないのかも。

 

窮地なんて嫌だと思う一方、
窮地に遭遇したらこっそりしめた!チャンス!って思うかも。