被爆再現人形は展示を継続すべき
広島の平和記念資料館で被爆再現人形が本日撤去される。
広島市は撤去理由について怖いからということではなく、現実はもっと悲惨だったということを反映していないからだとする。
つまり、刺激が強すぎるからではなく、刺激が足りないからだという。
刺激が足りないなら普通、増やすんじゃないの?
撤去したら刺激ゼロじゃん。
被爆再現人形の伝える方向性は間違っておらず、程度の問題なんだから、
一言「もっと悲惨だった」とそえるなり、
人形の数を増やすなりすればいい。
それをやらない広島市の論理は破綻している。
結局、刺激が強すぎるから撤去ということでしょう。
近年「刺激が強すぎる」という理由で、
「はだしのゲン」が学校から撤去されている。
映画「この世界の片隅に」も戦争、原爆の描き方が従来の戦争映画と違ってマイルドで、感情的に受け入れやすかったからヒットしたといわれている。
先日、人は「見たいものしか見ないし、見えない」という記事を書いたが、
人は放っておくと、心地良い方へ流れてしまうもの。
美しいものだけを見て、おぞましいものは見たくない。
現実には美しいものだけでなく、おぞましいものもあるわけで、繰り返さないようにするためにもおぞましいものにも目を向けなければならない。
見てもらえなければ、わずかでも伝えることができないので、入り口、きっかけは多少マイルドでもいいかもしれない。
だけど、奥には刺激が強くとも真実に近い被爆再現人形を展示する工夫をしたらどうか。
数年前、こどもと広島の平和記念資料館に行った。
小学校に入る前のこどもにとっては解説パネルなど理解できるはずもなく、興味ももてない。
焼け残されたお弁当箱や服をみても、いまいちピンときていないようだった。
弁当箱や服から、人間がどうなってしまったか想像ができない。こどもに限らず、知らないことは想像できないからだ。
でも、被爆再現人形を目にして恐ろしいことは理解したようだし、興味も持ったようだった。
一番知りたいし、伝えたいのは原爆投下で人間に何が起こったのか?だ。
被爆再現人形を見せることで
どんな年齢の人にも、
言葉がわからない人にも
原爆は人間を悲惨な状態にする
と伝えられるのではないだろうか?
だから、被爆再現人形は展示を継続すべきなのだ。