こどもに非寛容な社会-少子高齢化から考える。
外国人から見た日本人についての記録では、少なくとも江戸時代から戦前までは日本では子供が非常に大事にされていたようだ。内でも外でも。神聖な存在として。町中に子供の笑い声があふれていたと。当時の外国人はその様子に楽園をみたと感激している。(外国人から見た日本史より)
現代の日本ではどうだろう?
高齢化した大人が子供の声が大きくてうるさいからと保育園や公園の建設を堂々と拒否する、
そしてそれが何の疑問もなくまかり通る社会。
本当に声が大きいのは誰でしょう?(答えは文中にあり)
明らかに子供に非寛容な社会となっている。
社会で子供を「大事にする」というあの美しき日本の文化はなぜ失われ、
真逆の「大事にしない」という方向に進み続けているのか?
*戦後の民主化で社会に平等や競争がもたらされたから?
*家長制度が崩れ、核家族化したから?
*少子高齢化のせい?
どれも関係しているかもしれないが、以前に比べて非寛容が進んでいることを考えると、少子高齢化の進行が最も影響を与えているのではないかと思う。
少子高齢化により、民主主義の弱点が強調されてしまう。
少数派で有権者でもないこどもの声はあまりに小さくて政治には届かない。
一方、多数派で有権者である大人の声はとても大きくて政治にしっかりと届く。
つまりこどもたちは未来を担う存在でありながら、選挙権をもたないだけでなく、少数派だ。
高齢者を主とした有権者は多数派で未来に責任をもたずとも、未来を決定する力をもつ。
選ばれる議員も高齢化し、責任は持たないが、力は振りかざす者(わかりやすい例では石原さんのような方)ばかり。類は友を呼ぶ?
本来、責任と力は一致するもの。だから信頼が生まれる。
高齢化した大人による、子供を含めた若者たちへの想像力が欠けてしまっている今、高齢化した議員ばかりに任せておけない。1つの案として若者議員枠または子育て世代枠を設け、確実に若者や子育て世代の声を届けるというものはどうだろうか?若者の投票率もupするかも!?(自然に任せておくと選挙費用が高く、若者には立候補が難しく、候補者となっても高齢化した有権者はやっぱり高齢化した議員を選ぶという結果になる。)
ただ、これを決めるのは高齢化した議員たちだから自分で自分の飯のタネを失うような決定はしないだろうな。。どうしたものか。
子供に対する非寛容は少子高齢化をさらに進行させる一因となってもいる。
少子高齢化は高齢者を支える若者たちが少ないという物理的な側面がよく強調されるが、
国力である若者の声が大事にされず、届かないということがもっと問題だ。
単に労働力としての若者が減るだけでなく、この国の未来を真剣に考える存在としての若者が減るということが国としての弱体化を招く。
少子高齢化という危機はリーマンショックのように肌で感じられるものではないが、
じわじわと確実に国力を低下させている。
この流れを変える希望となるのは数が確保された若者議員だ。
それとも移民に希望を託すか?同じく少子高齢化したドイツのように。
この本を読んで考えたことを記事にしました。↓
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