人は見たいものしか見ない、見えない。
人は見たいものしか見ないし、見えない。
ホントにその通り。
本屋さんで本を手に取る度に思う。
様々な視点で物事を見なくては
と頭ではわかっていても、
自分と反対意見の本は読んでいて苦痛だし、
貴重な時間を無駄にしたくないなどと感じてしまう。
そもそも目に入らないこともある。
多様な視点を得ようとすることは重要だけど、
実は自分の許容範囲内でしか視点を得られていないことを自覚することも重要。
法律を「知っている」ことは力になる。
「道徳教育する前に法律教育を。」
「日本人は法律を知らなすぎることに問題がある。知らないがゆえに官僚と警察のいいようにあしらわれ、守れないようないい加減な法律が次々とつくられている。」
と、和田秀樹さんは著書『この国の冷たさの正体』で主張している。
交渉の際に「知っている」方が圧倒的に有利になり、「知らない」方が圧倒的に不利になる。
交渉は生きている限り、様々な場面で登場する。子供の頃からずっと。友人、先生、店、会社・・
法律を知っていることが人生を救うこともあるだろう。
このようにいう私は法律の専門家でも何でもないので法律は詳しくない。
でも、法律の教育が必要だという主張には同感だ。法律の専門家だけのものにしておくものではないと思う。
法律はどんなに難解であっても、私たちの生活や人生に深く関わっているものであり、人生を左右しうるものであるから、「興味ありません」というわけにはいかない。
法律の教育を増やすことで、
人々が自身を守ることや
法律に対する関心を高めることにつなげることができる。
つまり、法律の教育は『力』となる。
官僚の上げてくる法案に対して、
受け身で言われるがままになるのではなく、
監視の目を持って見つめることができるのではないだろうか?
例えば、
「共謀罪?」
「何それ?(自分には関係ないね)」
ではなく、
「どんな法律?」
という反応になるのではないだろうか?
和田秀樹さんの本を読んで書いた記事↓
ブランドかどうかで判断するママ達
ブランドの服を着せたり、有名な塾に行かせたりするのがいいという前提で話すママ達がいる。
ブランドかどうかで人や物を判断している感じでこの手の話題は苦手。
服だって塾だってその子に合っているかが重要で、ブランドものだから有名だからって選ぶものではないと思うんだけど。
ブランド名とかしらないし。
この感覚私だけかなと思っていたら、
別のママ(さっきの前提ママ達よりずっとお金があるママ)も「なんでそんなところこだわるの?」と思っていたそうだ。全く同感。
物を購入するとき、基本的には現物を見て自分が気に入ったら購入するわけで、それが結果的にブランド品とかってことはあるにしても、ブランド品だから購入するわけじゃないから、ブランド名とかあまり覚えてない。
使用感が気に入ってまた購入したいときは覚えてることもあるけど。あそこにあるあの店みたいに覚えてる。
彼らはタワーマンション買うなら上層階が絶対いいという。
なぜ?景色?見栄がはれるから?すみません、それしか思いつかない。
私は自分が居住するなら低層階がいい。面倒くさがりだから。さっさと地上に着きたいのだ。災害時に上り下りが大変そう…東日本震災のときは実際にエレベーターが止まって下に下りれないとか聞いたし。なんだか、タワーマンションの上層階ってボラれている感が否めない。。業者にとってはタワーマンションておいしいんじゃないのかな。
でも、上層階の方が欲しい人が多くて、売却時に値上がり幅が大きいとか節税目的(今はどうなのかな?)とかなら上層階の方がいいと思う。まぁでも、タワーマンションの上層階を買うお金があるなら、もっと都心の低層住宅に住んだ方が良いような。。
ちょっと横道にそれたが…
ブランドだからいい、ブランドじゃないからよくないと決めつけるのではなく、
自分の感覚を信じて、
良いと感じた物を手に入れる方が
自分にとっての幸せにつながると思う。
本当はあんまり欲しくもないブランドものを見栄のために購入して幸せなのは購入した本人ではなく、お店だ♪
専業主婦は活躍しているとはいえない?
安倍政権は『一億総活躍社会』(戦前の『一億総動員』みたいでキモチワルイ)を掲げているけれど、
この『活躍』には外での労働のほか、家事労働での活躍も指すのだろうか?
これは外の労働での活躍のみを指しているそうだ。
専業主婦のこれまでの家事労働での活躍は『活躍』とは認められないということ。
私から見れば、外で労働する女性も専業主婦もどちらも『活躍』しているのは間違いないのに、
なぜ、専業主婦の活躍は認めてもらえないのだろう?
専業主婦の家事労働には金銭が発生しない。(この状況を『逃げ恥』では『愛情の搾取』といっていた)
だから、労働ではないとか、楽だと考える人も少なくないけれど、
外注したらそれは労働と呼ばれ、その内容や拘束時間からみて、大した金額になる。
家事労働は立派な労働なのだ。
今、安倍政権によって女性の活躍の仕方を選ぶ権利が奪われている。
「活躍の仕方を選ぶ権利が奪われる」ということは「生き方を選ぶ権利を奪われる」ことだともいえる。
自分に合った活躍の仕方、生き方があるし、家庭の事情もある。
外で労働しないのはダメという価値観を押しつけては、
家で十分に育児をしたいという人や親の介護で働けない人が後ろめたさを感じなくてはならなくなるだろう。(ちなみに安倍政権は憲法改正案で「家族の問題は家族だけで解決するように」といっている。「外で労働しないとダメ」と「家族だけで解決」の両立は不可能。)
何よりも怖いのは『一億総活躍』が『一億総動員』になる日だが・・
参考↓
テレビに洗脳されていないか?
民放テレビは自分たちの考える「正しいこと」を一方的に流す。
作り手がいる以上、完全な中立などあるはずもないが、
そのことに無自覚なまま、
作り手は『さあこれが「正しいこと」ですよ』と流し、
視聴者も『テレビがいっているんだから「正しいこと」にちがいない』と受け入れる。
まるで洗脳だ。
洗脳されてしまうことを考えると、『ただより高いものはない』とはこのことだと思う。
しかも驚いたことに、NHKも含めて、論調が同じ。
中立は不可能であっても、局によって多様な論調があってもいいのに。
タイミング合わせたんですか?というぐらい横並びでおんなじニュースが流れている。
どのチャンネル見たって同じだから一つでいいのではと思う。
最も疑問に感じたのは、本人にとってあまり掘り起こされたくない話題だろうけれど、ベッキーの不倫の話題の取り扱い方。
NHKも含めてすべてのチャンネルでこのニュースをトップで取り扱っていた。
それからほぼ毎朝この話題は登場した。
通勤の支度で忙しい朝に必要な話題なのか??
トップニュースで扱うような重大さも緊急性もないし、
私たちの生活に直接関係ないことではないか。
あるとしたら視聴率を稼げそうな話題性だけ。(個人的には不倫は許し難い行為だけれども、ベッキーが女性だからこんなにたたかれているのだろうと感じて、このニュースを視ると不愉快な気分になったが。現に渡辺謙の不倫はほとんどたたかれていない。この差はなんだ?)
ベッキーの不倫よりも世界を含めてもっと知らせるべき重要なニュースはたくさんあるのに。
このような状況で日本のテレビだけを視ていても多様な情報は得られないし、
危機に際してより正確な情報を手に入れられるか心配になったので、
海外のニュース番組などもいくつか視ることにした。
有料だけれど、一方的に洗脳されるよりはずっといい。
多数派は正しい?
少数派を「正義」をふりかざしてたたく人がいるけれど、
そこには「正義」を隠れ蓑にして、多数派に付随する「強さ」を利用して優越感に浸りたいというズルイ心しかない。
そもそも多数派は「正しく」て、少数派は「間違っている」のだろうか?
民主主義のデメリットは
多数派が「正義」と勘違いすること。
多数派が「強い」のは確か。
「強い」者が「正義」を定義する現実を見れば、(イラク戦争でアメリカがイラクを証拠もなしに一方的に悪と決めつけて、攻撃したことなどを考えてみて)
多数派は「強い」ので「正義」だということはあるかもしれない。
でも、真の意味では「正義」とはいえない。
「正義」なんて絶対的なものはない。
立場が違えば真逆にもなるのだから。
だからって「正義」について考えなくてもいいわけではない。
常にその時その状況、立場での「正義」を
人数が多いとか他の人がどうかなどに惑わされる事なく、
自分の頭で考える習慣が大事。
難しいのはその「正義」が自分の頭で考えたつもりでも、
たんなるマスコミの刷り込みかもしれないってこともあること。ここ注意。
私はいつまでも母親のこども♪
実家で母親と話していたら
なんと
高校の制服や部活の道具、学園祭のTシャツまで残っていると言ってタンスの奥から出してきた。
すでにくたびれきっている。
母親は
「これどうしたらいいの?」
とか言うけど、
今知ったし。
高校卒業して何十年も知らなかった。
そもそも残しておいてなんてなんて言ってないんだけどな?(-_-)
さすがに着れないほどくたびれているから、
(というか制服なんて絶対に着る機会はない。)
捨てていいと思う。
でも、せっかくとっておいてくれたのに、
むげに『全部捨てていいよ』とも言えず、
「このTシャツは捨てていいよ」
といった。
そうしたら、母親は非常に名残惜しそうにしている。
「洗えばなんとかなるね・・」
って?
『どうするの?』と言いつつ捨てたくないのは母親の方じゃない?!
あーでも今ならわかる、その気持ち。
私も子供の赤ちゃんの頃の服とか思い出が染み付いていて、捨てるのに勇気がいったから。
母親にとっては私はいつまでもこどもなんだよね。
ま、私にとってもいつまでも親は親だけど。
先日路上で配っていた『共謀罪反対』のチラシを受け取ってみた。
野党が失われてしまったこと。
野党が野党としての存在感や
与党に対する一定の歯止めを
完全に失ってしまった。
与党の法案ややり方に不満を持つ人々の思いは
受け止められることなく、漂うばかり。
この国ではマイノリティーであることは
非常に弱い立場に置かれることだ。
容赦ない攻撃を受ける。
だから、自分の政治的思想や意見を自信を持って表に出すことができない。
何をされるかわからない、怖いという感覚。
特に司法や行政が公正に機能せず、権力になびく国では。
ましてやこれからは政権と異なる思想を持ち、活動していたら
治安維持法(この法律も元々は一般の人や社会運動家などは取り締まらないといって成立させた経緯がある。しかし結局、しかし結局2000人以上が拷問死。戦争反対の声も上げられなくなった。)とそっくりといわれる『共謀罪』で監視されたり、逮捕されてしまうかもしれない。
でも、自分と同じ考えの人々の活動は応援したいと思う。
先日路上で配っていた『共謀罪反対』のチラシを受け取ってみた。
ただ受け取るだけ。
だけど、ティッシュを受け取るのと違って、勇気が必要なのだ。
応援の気持ちを表したくて受け取った。
議員さんにお話を聞いたとき、街頭でなかなかチラシを受け取ってもらえないと嘆いていらした。受け取ってもらうことが、力になるともおっしゃっていた。
まずは一歩。
オマケ
ちょっと疑問。友人と政治の話をして、根本的な部分で相違があった場合、友人関係は維持できるのだろうか?アメリカなどは日本と比べて政治思想をはっきりと表明するようだが、例えば、トランプ派・反トランプ派で友人関係を維持できているのだろうか?
共謀罪について↓
権力になびかないアメリカ↓
マイノリティーに対するいじめ↓
横浜の緑化フェアがステキ☆
今横浜みなとみらい地区中心に「全国都市緑化よこはまフェア」が開催されている。
はじめてだったので
単に一部がお花畑になっているだけなのかなと思っていたら、
あちこちがお花畑になっているし、
今の季節、桜とのコラボでさらに華やかに。
ぱあっと晴れやかな気分になる。
また、お庭のコンクール作品もたくさんあった。これもはじめてで、その庭一つ一つの世界観に浸るのが楽しい。子どもも楽しめそう。
効率ばかりが重視されたメタル的で無味乾燥な都市ではなく、
こんな風に緑あふれる都市が未来都市の姿だと思う。
緑あふれる都市こそ、都市としての余裕やゆとりを感じる。
森友問題、もう飽きてても注目しておかなきゃ。風化はダメ!
北朝鮮問題に話題持って行かれて
最近森友問題が消えかかっている。
安倍首相は北朝鮮に助けられたとも言える。
北朝鮮危機をあおることで支持率は高くなるし、森友問題も忘れてもらえるしで。
森友問題は籠池氏自身は小粒で、
問題も小さそうに見えてしまうけれど
本当は核心部分は大きな問題だ。
国のあり方、国家権力のあり方に関わる問題だからだ。
国家権力にこびる人が優遇される国では民主主義が成り立たなくなる。
民主主義の下では
本来ならば、
国家権力<法の支配、ルール、手続き
であるべきなのに森友問題では
国家権力>法の支配、ルール、手続き
となっていたおそれがあるからだ。
説明が求められている方々、首相夫人や政府の役人は
「関係ない、問題ない」のであれば、
その旨を堂々と説明すべき。
そうしないと真相解明が進まない。
住む場所で運命が変わる。
速水健朗さんの『東京どこに住む?』を読んだ。
この本に
”エンリコ・モレッティは著書『年収は「住むところ」で決まる』で「移住には投資と似た面がある」という。都市で暮らすということが、自分を成長させる機会になる。または、いい仕事に巡り会う機会の確立を高くすることになるということだ。”
とある。
つまり、
都市に住むことはコストがかかるが、
それに見合ったあるいはそれ以上の
成長の機会や出会いという果実を得られることがある。
まさにその通りだと感じたことがある。
知人はこどもの公立小学校の学区のために千代田区に引越しをした。
知人のお子さんなのでもともと頭は良かったのだろうけれど、トップ中学に見事合格した。
ここまでは想定通りだったのだろう。
さらに、予期せず知人自身にも果実が。
知人と同じようなレベルの保護者が多く集まっていて、一緒に仕事をすることになったそうだ。
出会いの効能について
少し私自身の話をすると、
私はごく普通の公立中学校に通っていたが、
奇跡的にいい進学校に進むことができた。
今思い返すと、とても恵まれた環境にあったからだ。
当時は自分の力だけで進めたと思っていたけれど…(-_-)
中学生のとき私は今で言うSAPIXみたいな塾に通っていた。その塾の全国テストで毎回トップ、調子悪くても三位内に入る子がいた。
奇跡なのはなんとその子が同じ中学校に通っていたこと。
私からみればすごすぎて神のような存在。当然向こうからみたら私なんて全く相手にならない。だけど、塾のクラスも一緒だし、帰る方向も一緒だしで、なんだかんだ一緒にいることもあった。決して仲良しではなかったけど。
結果的に奇跡的にその子と同じ高校に進学できたのだ。そして、その高校に通えたことはその後の私の人生にいい影響を与えてくれた。
その子の存在がなかったらまず無理だったなと今だから思う。
私のような偶然の出会いはなかなか難しいかもしれない。
自分を高めてくれるライバルや仲間に出会えるよう自ら環境を整えること、住む場所を考えることは重要だと感じる。
廊下に立たせたり、怒鳴ったりするのは体罰じゃない?
運動会の練習中に飲水を我慢させ、
生徒を熱中症にさせた教師の記事を書いたが、その教師は着任一年で離任した。
心底安心した。
なにせ、授業参観ではいたって丁寧な言葉使いと優しい姿だったけれど、
普段は別人のようだったそうで。
教室がざわついていると、
低学年の生徒に向かって
「話してんじゃねーよ。出てけよ!」(注:教師は40代女性)
といったり、
配膳中に立ち歩いていた生徒に
「廊下で立ってろ。」
といって立たせ、その生徒が教室に入ろうとしたら
「普通の顔して入ってんじゃねーよ!」
と追い出したり。
教師がこの言葉使いでは子どももマネしてしまうよ。そして驚きなのが廊下に立たせること。私は自分が小学生の時廊下に立たせるのなど目にしたことはないし、耳にしたこともなかった。漫画の世界だけと思っていた。今も昔も大して教室の雰囲気なんて変わっていない。
廊下に立たせるっていうのは時代に逆行している気がするけれど、他の教師も教室の前方に立たせたりしている。
立たせるのはスタンダードな指導なのだろうか?私には体罰にみえるんだが。
しかも立たせている理由が凶悪な何かではない。おしゃべりしていたとか立ち歩いていたとか。罪に対する罰が重すぎ。釣り合ってない。
同じクラスを、この教師の前はもっと若い教師が担当していた。教室がざわついていたが、その若い教師は声を荒げることなく、ただ黙って生徒の方を向き、静かになるのを待っていた。さほど待つことなく、だんだんざわつきはなくなった。
力で押さえつけずとも、低学年のこどもでも自分で自分を律することができるのだと知って感心した。
もちろんこの教師は生徒に大人気。
子供からも親からも信頼されていた。
自分の怒りのままに、「指導」という名の「体罰」を子どもに課してはならない。
そして、低学年のこどもでも、ちゃんとわかっていて、そんなことをする教師のことは信頼しない。
オマケ
『給食の配膳中におしゃべりすると教室の前に立たせる』これには疑問が2点ある。
・配膳中におしゃべりをしてはいけない理由は?私の子供の頃は給食の時間はわいわい楽しく準備、食事したものだ。こどもの萎縮につながりはしないか?配膳中にしいんと静かに黙って待つなんて大人だって黙る理由がなければ無理で、おしゃべりするだろう。
・繰り返しになるが、立たせることは体罰ではないのか?立たせるほど重罪なのか?
まるで軍隊のような教育に恐怖をおぼえる。。
ユナイテッド航空ひどい。怖い。人種差別?
ユナイテッド航空ひどい。
ニュースでやってた。
自社の社員を乗せるために
ちゃんと予約し、すでに搭乗し、座席に座っていた乗客を
飛行機から無理やり引きずり降ろした。
降機を拒否した乗客には全く非はない。
乗客は翌日に診察を控えたアジア系医師だった。
でも、血を流しながら床を引きずられて降ろされた。
何の罪もない彼に何で暴力がふるわれたのか?
彼が白人医師だったらどうだったのだろう?
そもそも白人は降機の対象に選ばれないのかも。
このトラブルやっぱりあれかな、人種差別からんでるでしょ。
トランプ政権になってから、
人種差別意識は隠さなくてもいいものになって、
より一層人種差別が深刻になっている。
先の大戦の根底にあったのは人種差別だ。
白人至上主義下での、アジア人である日本人に対する差別。これに反発した日本人。
これからはアメリカ行くの怖いな。
ユナイテッドのマイレージせっかくたまったけど怖すぎて使えないな。
トランプ氏と人種差別の考察↓
嫌な経験は二度とごめんだけど、貴重なのは確か。
こどもがまだ小さかったとき、ヤクザのような上司にいわれた。
「こどもがいないと思って働け。少なくとも7時ー10時だ。9時5時なら無給だ。」
は?
あまりに理不尽すぎて、すぐに腹がくくれて答えが出た。
もちろん答えはNO
それまでは恐ろしいと感じていた大きな力だったけれど、
全く恐怖はなかった。
それまでの私はおかしいと思ってもはっきりと異議を唱えることはなかった。
自分が我慢すればいいと思っていたから。
でも自分ではなく、こどもが不利益を被るとなれば別。
我が身を省みない不思議な力が出てくるみたい。
あんなことはできれば繰り返したくないけれど、
あの経験のおかげで、妙な自信はついてしまった。
どんな嫌なことがあってもあれよりはまし、とか
どんな手強そうな相手でもあれよりはまし、とか。
簡単にいうと戦うことに対して臆することがなくなった。
自分に面倒だとかいろいろ言い訳して事なきを得ようとするアレだ。
もちろんいつだって戦う訳じゃない。
感情にまかせて何でもかみついてたら体が持たない。
必要に応じて。
必要なときにしっかりと調べたうえで、正しいと確信することはきちんと主張する。
これに対する心のハードルは以前より低くなった。
楽しくもないし、決して楽ではないけどね。
そう思うと、あの経験がとても貴重にすら思えてくる。
私を強くしてくれたあの嫌な経験に感謝だ。