北朝鮮は『特別おかしい』のか?
いつも思うこと。
北朝鮮を非難する番組で
さも北朝鮮は『特別おかしい!』って感じにやっているんだけど、
『特別』ってことはないよね。
核ミサイルに関わった研究者が厚い待遇を受けるとか、
そんなのアメリカとかロシアとか他の核保有国だって全く同じでしょ。
核礼賛している人は世界中にいるし。
唯一の被爆国の日本だって事情は何であれ、事実として核兵器禁止条約に反対している。
北朝鮮の教科書で日本やアメリカのことをひどくいっているっていったって
日本だって園児に中国や韓国のことをひどくいうように教育している幼稚園もあるわけで。しかも、政府の要人のおスミつき。
戦前は敵国にもっとひどいいいようだったわけで。鬼畜米兵とか。
アメリカは日本人のことを黄色い猿と表現していた。
(とある番組を見ていて日本だって同じなのに何でこんなにコメンテイターがたくさんいても、ただ北朝鮮だけがおかしいというコメントばかりなんだ?と思ってみていたら元NHKのコメンテイターだけが戦前の日本の鬼畜米兵といったことに触れた。やっとまともなコメントがでたよと思っていたら、、ほとんど黙殺されていた。日本のことには触れてはいけない??様々なコメントを認めない番組はダメ。ただの洗脳番組だ。これこそ北朝鮮の偏った番組と同じでしょ)
「キムジョウン様」といってあがめる、あがめさせられるの、命をかけるのをおかしいというけど、
戦前は天皇をあがめる、あがめさせられる、命をかけるということがあった。
しかも安倍政権はこれを復活させようとしている。
何が違うのだ?
北朝鮮のやることを『おかしい』と思うことは非常に大事な感覚。
少なくとも戦前の日本にはなかった感覚だから。
この感覚は大事にしながら北朝鮮は『特別おかしい』わけではなく、
一歩間違えれば日本だってありうることを認識する必要がある。
現に現政権の下で近づきつつある。
北朝鮮のやることに全く同意できない。
同意できないからこそ、
反面教師にして我が身をふりかえって、日本はどうであるか、どうであるべきか考えるきっかけにしたいもの。
単なる非難からは何も学べないだけではなく、憎悪しか生まない。
その憎悪は相手(この場合は北朝鮮)と同じ土俵に乗って、皮肉にも相手に似てくるという結果をもたらす。
北朝鮮関連↓
愛国教育は日本で容認されている↓
真面目な医師の妻は誰?
外国人ジゴロにはまってしまった真面目な女医さんについて書いたけれど、
男性医師もおんなじ。
知人男性は丁寧で紳士的な医師。
ある日、「妻の家族が来て案内して体調を崩した」と言っていた。
5、6人来たそうで。
5、6人?そんなにくる?
すると、
「妻はフィリピン人なんだ。」
彼は変わった男性には見えなかったので驚いた。
というのも
私が接したことのある日本人男性と東南アジア系女性のカップルはみな、
男性は5,60代でギラギラしたオイリーな感じで
女性は2.30代で大抵蛍光ピンクで露出度高い感じだったから。
私の中で東南アジア人女性と結婚する男性のイメージが固定化されていた。
ま、偏見だけど。
そして、彼もまた、想像を裏切ることなく、
フィリピンクラブで出会ったという。
彼が私立の医大生だったとき、彼は留年してしまった。落ち込んでいた彼を悪友はフィリピンクラブに連れていき、その後彼は一年以上通いつめた。そういう中で未来の奥様と出会ったそうだ。
彼の実家は厳格な両親で当然大反対だったけれど、それを押し切っての結婚。
デキ婚でもなく、何十年と連れ添って今日に至る。
彼は真面目だからこそ、遊びで終わらすことなく、本気になって結婚したのだろうな。
別の知人は新宿近くの私立医大に入学するなり、新宿に通いだしたけど、
彼みたいなのは遊びはしても結婚しないんだろうな。
国有地を格安購入できた経緯に忖度はあるのか?忖度の危険。
安倍首相夫人側からの問い合わせにより、お役人の忖度があったのかどうか。
ここをはっきりさせることが非常に重要。
なぜ重要か?
今回の国有地を格安で購入できた経緯が明確になるだけじゃなくて、忖度が大きな危険を含むものだからだ。
そもそも忖度とは
→他人の心をおしはかること。
極めて日本的。
これこそ感情的判断。
忖度する人はさも対象となる者のために行動しているようだが、その実、自身の立場を守るための行動。
忖度の何がいけないか?
他人の心を読み間違えているかもしれないだけでなく、
忖度で手続きが消失する。
これが重大なデメリット。
手続きは感情的判断の暴走を食い止め、理性的判断をするための手段。
手続きが消失すると責任の所在がはっきりしないまま、物事が進行し、戦争のようなひどい結果につながる危険がある。
忖度の有無ははっきりさせて、あったのなら再発がないよう、ルールを徹底する必要が出てくる。
行政機関というのはルール執行のために
理性的判断をするところで、
感情的判断をするところではない。
だから感情的判断である忖度は持ち込むべきではなく、
お役人はきちんとした手続きや指揮系統の下で行動すべきなのだ。
それにしても、
お役所ではルール執行といって私たち国民にはハンコ一つ抜けてても書類を受け付けないくせに、
今回の森友学園の土地購入に関わった役人は書類すら残していないという。
それなら全く職務怠慢だ。
あるいは
ルールにのっとった正式な書類はなくても、
非公式な書類はあるのでは?
佐川財務局長にはぜひ提出していただきたいもの。
じゃないと職務怠慢だから、税金から出ている給料返金して欲しい。
森友関連↓
理性的判断と感情的判断↓
中国旅行では牛肉の小籠包がオススメ
中国旅行の楽しみの一つは料理。
私は中華料理が大好き。
中国旅行で1番おいしかったのは
牛肉の小籠包
一つのセイロに8こぐらい入って200円くらい。豚よりもさっぱり、でもいいダシが出てる。タレもいろいろな香辛料が効いていて深い味になっている。
子どもも大好きで、朝からセイロ一つ分ペロリとたいらげてしまった。
日本でも食べたくて探してみるものの、
どうも同じタイプの小籠包はない。知人に聞いてみても日本では見かけないという。
他の中華料理も外れなく、おいしかった。
ただ一つどうしても食べられなかったゲテモノ以外は。
そのゲテモノとは…(ゲテモノが苦手な人はここでみるのをやめるのが賢明かも)
そのゲテモノの話の前に私のゲテモノ歴をちょっと。
わざわざ自らゲテモノを食べることはないけれど、
サバイバル精神から?出されたものは一応チャレンジして食べてみるという主義で。
これまでいろいろなゲテモノを食べてきた。
私からみたらゲテモノなだけで、地元の方からみたら普通の料理なんだけどね。
子供の頃、友人宅で食べた山梨か長野の虫のつくだ煮にはじまり、
カエルの足の唐揚げを食べたり(鳥のササミみたいな感じ)
オーストラリアではワニやカンガルーを食べたり、
モンゴルではマーモットの丸焼きを食べたり。(脂がよくのっていてお酒に合う)
どれも意外とおいしいのだけれど、
やっぱり2度目はいいかな。。
どんなにおいしくても食べるまでのドキドキが疲れちゃって。
そんな私でもちょっとムリと思ったのは
中国のイモムシの唐揚げ。
中国旅行中、知人宅で、レストランで何度も登場する。
知人はみなおいしいおいしいと言って食べ、数ある他のおいしい中華料理をさしおいて、必ず最初に皿が空になる。
知人も私に「エビみたいでおいしいよ!」と熱心に勧めてくれるのだけどムリだった。
たぶん食べたら食べたでおいしいんだろうけどね。
勇気ある方はぜひ試してみて。
「理性的」といわれたい?「感情的」といわれたい?
「理性的」といわれるのと「感情的」といわれるのではどちらがいい?
と聞かれたら、「理性的」といわれたい人が多いのでは。
「理性的」な方が何か高等な感じがするからだろうか。
だけど、現実を見回してみよう。
物事は感情的判断で動いている。
身近なところでは何を買うか決めているのは「欲しい」という感情だ。
歴史も感情的判断で作られている。
政治も感情的判断で動いている。
社会も感情的判断で回っている。
最終的に人を動かす力を持つのは感情だ。
だから、未来を予測することなんてできないし、逆に歴史を何度も繰り返すともいえる。
(人の感情なんて変わりやすいから読めないし、一方で太古の昔から人の感情は変わらないともいえる)
もちろん理性は必要ないなんてことはない。
感情しかない世界だったら、崩壊してしまうだろう。
感情の暴走を止めるのは理性だから。
安倍首相夫人は証人喚問で正々堂々と証言を。
証人喚問で偽証罪に問われるかもしれないというリスクを背負いながら証言する一般人の籠池氏と
Facebookで何のリスクも負わずにコメントを述べる安倍首相夫人
どちらのいい分が信用できるだろうか?
発言の内容うんぬんの前にその発言の姿勢が信用に値するかが重要だ。
発言にリスクを負う者と負わない者。
全くアンフェアな戦いだ。
これが力ない者と力ある者の戦いの現実なのか。
安倍昭恵さんは反論があるなら正々堂々と証人喚問で証言したらいい。
自分の発言や行動に自信がないのだろうか?
力ある者ほど”正々堂々と”がなく、人の陰に隠れる。
力ない者には”正々堂々と”を強制するくせに。
全くもって戦前から変わらない体質。
戦前からのずるい権力について↓
森友学園関連は↓
子どもが奈良で仏像に目覚める。
まぁ私たち誰もが通る道なんだが。
好きな時代は飛鳥時代だと。
(私は平安時代かな。風雅な世界に憧れる♪)
しょっちゅう
とゆうわけで、奈良に社会科見学に行ってきた。今回は歴史編。
私は奈良は以前から行きたかった。
三十過ぎたら仏像とか静かに観てみたいなと感じるようになって。(あっでも仏像マニアではないので全く詳しくない)
仏像って寺などあるべき場所にある方がずっと生き生きしている。博物館などで集められて展示してあるのは確かに見やすいんだけど、その像の背景から切り離されていて生気を感じない。だから、実際に見てみたいのだ。
でも、日数が必要なので気軽に行けないのと、
寺や仏像に興味をもてない子どもとは行けないのとで諦めていた。
ところが、ここへきて子どもが飛鳥時代が大好き☆チャーンス!早速奈良へ!
飛鳥寺や石舞台古墳はどうしても行きたいと言うので飛鳥駅からサイクリングでまわった。こどもはいつの間にか憶えてたようで各ポイントにくるとここは誰の墓だとか解説してくれる。(ガイドか⁉︎好きなことはホントにすぐやるしおぼえるよね〜)そして、実物をみていたく感動している。「飛鳥に来てよかった‼︎」と。
飛鳥寺の仏様は1400年前からいるだけあって静かながら貫禄があった。今は赤茶色だけど、当時は全身金ピカ目だけ青かったというから、それはすごい神々しいだろうなと感じた。
飛鳥時代に仏教伝来ということもあって、こどもも仏像にも興味があるみたい。よかった!古墳とか遺跡だけじゃないのね。
仏像のガチャポン三回もやらされた。
結構リアルで古びた雰囲気もでているから重厚感あり。私もつい眺めちゃう感じ。
こどもは部屋に戻るといろんな仏像の絵を描いている。
仏像は『かっこいい!』そうだ。
これからは一緒にお寺&仏像巡りできそうだね〜☆
ハードカバーじゃないから軽いし、サイズも小さいのでちょっとしたお出かけや旅のお供に便利な角川の歴史マンガ↓
角川まんが学習シリーズ 日本の歴史 (2) 飛鳥朝廷と仏教 飛鳥~奈良時代
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籠池氏証人喚問、頑張って〜
籠池氏の証人喚問がめちゃおもしろい!
与党が質問しているときは、
質問があまりに的外れ(というか的を外したい♪んだろうけど)でイライラしてきていた。
(しかも質問してる西田議員、的外れなのに感情的で力んでいるから聞いていて疲れる。)
この感じ、デジャブだ。石原氏に百条委員会で与党が質問しているときとおんなじだ。グレーな立場の人がグレーな立場の人に質問するから、全く鋭さなし。時間つぶし状態。
'特別な力'の有無に関わる部分を聞こうとしない。
あーそこじゃないよ!!って。
痒いところに手が届かない感じ。
むしろ籠池氏が本質はそこじゃないといって、軌道を戻そうとしたり、本質に関わる発言をしたりして、スッキリしたり。(どこまで真実かわからないけれど、籠池氏がウソつくメリットはあるのだろうか?)
だけど、野党の質問になって、的を得た質問が次々に出て、(しかも冷静)
断然!おもしろくなってきた!
今までのイライラはどこへやら。
しかも、籠池氏は悪役なのに、今や強大な権力に立ち向かう悪役だから、つい応援してしまう自分がいる。
ウソをつくのが本性だとしても、籠池氏には今後も権力に屈してウソをつくようなことはないように頑張って欲しい。
特攻隊を美化して正当化するのは哀悼することとは違う。
戦争の事実を忘れないためにも、
子どもを連れて
原爆ドームをはじめ、昭和館や平和記念館に行く。イベントの写真パネルを見に行ったりもする。
知覧にも行こうか検討したことがある。
でも、知覧で特攻隊をどのように伝えようとしているのかわからず、子どもに真に大切なことがうまく伝わるか不安が残り、断念した。
近年のドラマや映画、本では特攻隊が美化されているものも多い。
特攻隊での死を美化したり、意味のあるものと思いたいという気持ちは人間の感情からして理解できるが、
フランスで自爆テロのことをKAMIKAZEというように現実として客観的に見て、特攻隊の行為は自爆テロと重なる部分があると思う。
もちろん特攻隊は軍人を対象としているが、
テロは民間人を対象にしている点で大きく違う。
テロは全く肯定できない犯罪だが、イスラム教徒で自爆テロを行っている者も自らの死を美しく意味があると信じている点は特攻隊と変わりない。
また、
力ある者が神に自分の命を差し出すことはしないのに、
力ない者に神に命を差し出すよう強制、洗脳している点も同じ。
特攻で戦死された方への哀悼の気持ちはあるし、
特攻隊を志願した人々を非難する気持ちも全くない。
あのような教育勅語の強制下では若く純粋であればあるほど洗脳されやすいのは無理もなく、むしろ戦前の体制の犠牲者といえるから。
しかし、特攻を美化して正当化することは同じ過ちを犯しかねないという点で非常にキケンだ。
哀悼と美化・正当化は分けて考えないと。
過ちを繰り返さないために特攻隊の存在は子どもに伝えていくべきだけれど、伝え方は慎重さが必要だ。
感動ばかりを強調した結果、「特攻隊はカッコイイ!」なんていう認識を与えてしまったり、「特攻のような命を軽んじる作戦は絶対にダメだよね」という視点が抜け落ちてしまったりする可能性がある。
『自分の命であれ、他人の命であれ、何よりも大事』ーこれをしっかりと伝えていかなければならない。
こどもに非寛容な社会-少子高齢化から考える。
外国人から見た日本人についての記録では、少なくとも江戸時代から戦前までは日本では子供が非常に大事にされていたようだ。内でも外でも。神聖な存在として。町中に子供の笑い声があふれていたと。当時の外国人はその様子に楽園をみたと感激している。(外国人から見た日本史より)
現代の日本ではどうだろう?
高齢化した大人が子供の声が大きくてうるさいからと保育園や公園の建設を堂々と拒否する、
そしてそれが何の疑問もなくまかり通る社会。
本当に声が大きいのは誰でしょう?(答えは文中にあり)
明らかに子供に非寛容な社会となっている。
社会で子供を「大事にする」というあの美しき日本の文化はなぜ失われ、
真逆の「大事にしない」という方向に進み続けているのか?
*戦後の民主化で社会に平等や競争がもたらされたから?
*家長制度が崩れ、核家族化したから?
*少子高齢化のせい?
どれも関係しているかもしれないが、以前に比べて非寛容が進んでいることを考えると、少子高齢化の進行が最も影響を与えているのではないかと思う。
少子高齢化により、民主主義の弱点が強調されてしまう。
少数派で有権者でもないこどもの声はあまりに小さくて政治には届かない。
一方、多数派で有権者である大人の声はとても大きくて政治にしっかりと届く。
つまりこどもたちは未来を担う存在でありながら、選挙権をもたないだけでなく、少数派だ。
高齢者を主とした有権者は多数派で未来に責任をもたずとも、未来を決定する力をもつ。
選ばれる議員も高齢化し、責任は持たないが、力は振りかざす者(わかりやすい例では石原さんのような方)ばかり。類は友を呼ぶ?
本来、責任と力は一致するもの。だから信頼が生まれる。
高齢化した大人による、子供を含めた若者たちへの想像力が欠けてしまっている今、高齢化した議員ばかりに任せておけない。1つの案として若者議員枠または子育て世代枠を設け、確実に若者や子育て世代の声を届けるというものはどうだろうか?若者の投票率もupするかも!?(自然に任せておくと選挙費用が高く、若者には立候補が難しく、候補者となっても高齢化した有権者はやっぱり高齢化した議員を選ぶという結果になる。)
ただ、これを決めるのは高齢化した議員たちだから自分で自分の飯のタネを失うような決定はしないだろうな。。どうしたものか。
子供に対する非寛容は少子高齢化をさらに進行させる一因となってもいる。
少子高齢化は高齢者を支える若者たちが少ないという物理的な側面がよく強調されるが、
国力である若者の声が大事にされず、届かないということがもっと問題だ。
単に労働力としての若者が減るだけでなく、この国の未来を真剣に考える存在としての若者が減るということが国としての弱体化を招く。
少子高齢化という危機はリーマンショックのように肌で感じられるものではないが、
じわじわと確実に国力を低下させている。
この流れを変える希望となるのは数が確保された若者議員だ。
それとも移民に希望を託すか?同じく少子高齢化したドイツのように。
この本を読んで考えたことを記事にしました。↓
グローバリズム以後 アメリカ帝国の失墜と日本の運命 (朝日新書)
- 作者: エマニュエル・トッド
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「オモテナシ」という言葉がどうも胡散臭くて好きになれない。
「オモテナシ」という言葉は嫌い。
理由は二つ。
一つは「オモテナシ」という言葉で労働力を搾取しているから。
もう一つは相手のためといいながら、最終的には自分の利益が目的だから。
経営者が自分の責任で今後の自分の利益のために自身が「オモテナシ」をするのは問題ない。
経営者が従業員に対して、給料を上げることもせずに「オモテナシ」を強制するのは、「オモテナシ」という名の労働力の搾取だ。
おもてなしはやるかやらないかは完全に自由裁量で、やらなかったからとどんなデメリットも受けるべきではない。
母であり妻であればそれで満足?自分の人生を生きていない。
夫と子どもをサポートすることを言い訳に
自分の人生に対する責任を放棄している。
サポートしてるというと良妻賢母みたいでいっけん聞こえがいい。(しかも実際は良妻賢母とは程遠いサポートしかしてないω)
でも、自分が自分の人生のために努力していないのは確か。
趣味でも習い事でも仕事でもボランティアでも勉強でもなんでもいいけれど、努力していない。
誰もこのことをとがめたりしないし、
せっぱつまった何かもないし、
ラクだけど何か足りない。
時々、心の中に虚しさが広がる。
だからといって、夫と子どもへのサポートに支障が出ないように、限られた時間でと考えると、
結局「何ができるのか?何も思いつかない」
という現実にたどり着いてしまう。
二つのことに全力を注ぐことはまず無理なので、サポートも自分の努力も中途半端になるのでは?という思いもある。
何があるかな…
残業月最大100時間合意。やっぱり人の命は仕事より軽いのか?
電通の過労死事件で被害者の母親が
「命より大事な仕事なんてない」
といったが正にその通り。
なんで過労死ライン(労働時間月80時間を超えると過労死のリスクが高まる)を超える
残業月最大100時間OK!がまかり通るのだろう?
その仕事、命を削ってまでするほど大事?
まるで
「仕事(金)より大事な命なんてない」
といっているようなものだ。
「KAROSHI」という言葉は「KAMIKAZE」(欧米では自爆テロを指すそうだ)と同様に日本発の英単語だ。
「過労死」は欧米にはない異常な、日本独特の状況で適当な訳がなかったため、日本語がそのまま使われている。
あんまり褒められたもんではないね。
日本人は働き過ぎだってことだ。
悪い意味で。
私たちが過剰な労働を求められるのは
私たちが過剰な便利さを求めていることも
原因の一つとしてあるだろう。
だから残業月最大100時間OKなんていってないで、
むしろもっと経済の回転を緩くしてもいいんじゃないの?
人口が減っているんだから経済規模を縮小したりさ。
それで多少不便になったとしても。
その便利さ本当に必要?
結局自分たちで首をしめているだけだ。
ヨーロッパの国々を見てみればわかる。
例えばお店は日曜日は休み、夜中も休み。
人命に関わるような仕事でない限り、お休み。
過剰なオモテナシもなし。
それが普通。
それでうまく回ってるじゃない。
☆過労死関連☆
自分で自分の身を守ることも大事!↓
言葉による思考停止
言葉の力はおそろしい。
ある物事について言葉で表現された時、人々は表現されたことに安堵し、理解し得たと錯覚し、その物事についての思考を停止してしまう。
その言葉が核心を得ていない、本質を表していないとしても。
例えば、「戦争は悪い」という言葉。
この言葉に思考は停止し、もちろん議論されることもなく、戦争について深く掘り下げられることがない。
だから、心にも残らなくなっている。
この「戦争は悪い」という言葉は思考停止という魔力はもつが、残念ながら戦争そのものの抑止力を持っているとは思えない。
思考停止させてしまうとしても、その言葉が対象となる物事の目的を達成するならまだしも。
この記事はこの本↓を読んで感じたことです。読みやすいし、おもしろかった。
- 作者: 高橋 源一郎
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2016/11/11
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ホワイトデー前のデパ地下
いつものように夕飯の足しにお総菜でもと思ってデパ地下にいったら
普段見ない黒い服の人々がごった返している。
仕事帰りの男性だ。
珍しい。
そうか!明日はホワイトデーか。
みなスウィーツ売り場に群がってる。
なんか・・おもしろい。
ほほえましいというか。
バレンタインの時、テレビで最近は義理チョコは下火だとか女性同士で交換だとかいってたけれど、
お返しを買い求めているのを見ると、
なぁんだ、意外とちゃんとみんな義理チョコもらってんじゃない。
あっもしかして義理じゃなくて本命だったかも!?